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人生は後半になってから答えを出してくる

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おはようございます、Rinです。

先日、同僚が朝日新聞「みんなで語ろう」コラムの切り抜きを持ってきてくれました。

「この記事を読んで、Rinさんと同じだなと思ったから」
そう言って手渡されたのは、離婚して三十年が過ぎた元夫を、ケアマネジャーとして最期まで支えた女性の話でした。

結婚生活の中で、元夫は酒癖が悪く、暴力もあったそうです。
彼女は離婚を選び、息子を育てながら自分の人生を歩いてきました。
けれど縁が完全に切れたわけではなく、息子を通して細く関係は続いていました。

やがて元夫は認知症を発症し、歩くことも難しくなり、生活の中で支援が必要になりました。
その担当ケアマネが、偶然にも元妻である彼女でした。

仕事として、そしてひとりの人として向き合う中で、彼女は元夫の老いと弱さを目の当たりにします。

離婚から三十年。
憎しみや怒りだけでは語れない時間が積み重なり、亡くなるまでの四年間、彼女は関わり続けました。

コラムの中で、彼女はこう綴っていました。
「許すことはできない。でも、関わる中で、私の心は少しずつ和んでいった」

そして、最後に書かれていたのは、

「人生に無駄なことはなかった」

という静かな一文でした。

それを読んだとき、胸の奥がじんわりと熱くなりました。
私にも、「もう関わらなくていいはずだった人」と、人生の終盤で向き合う時間があったからです。

過去記事にも書きましたが・・・

私の両親は、私たち姉妹が幼い頃に蒸発しました。
原因は父の借金です。

写真は今から50年以上も前のものです。

保証人になったことをきっかけに、父はギャンブルと酒にのめり込みました。
ある早朝、「起きたらおばあちゃんに電話してね」という言葉と3万円を残して両親はいなくなりました

ほどなく戻りましたが家は売られ、両親は離婚。
その後も父は金の無心に来て、母は追い詰められ、やがて姿を消しました。

親族の判断で、私たちは再び父と暮らすことになりました。
貧しさと暴力の中での日々でしたが、担任の先生や祖父母に助けられ、姉とともに父の元を離れることができました。

長く行方知れずだった父と再会したのは、父が認知症になってからです。
物忘れ外来での認知症検査の際、父がひらがなで一生懸命書いたのが、

「あさ草とりをした」

という一文でした。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけ、「もう責め続けなくていい」と思えたのです。

それから父を看取るまでの最後の一年、姉と交代で介護に通いました。
この時間があったからこそ、私たち姉妹は父との関係に、静かな区切りをつけることができたのだと思います。

冒頭のコラムの言葉を、今は私もそっとなぞっています。

人生に無駄なことはなかった――

そう思えるようになるまでには時間がかかりましたが、あの一年は、私にとって確かに必要な時間でした。

父とのことをもう少し詳しく書いた記事は、ブログにまとめています。
よろしければ、そちらも読んでいただけたら嬉しいです。
それでは~また。

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