父が亡くなったのは、2020年4月18日の午前9時56分。享年78歳でした。
そう、今日は父の命日なんです。
父が生きていたころは、介護のことをブログに書いていたのに、亡くなってからはなぜか筆が止まってしまって、そのままになっていました。
でも、そろそろ書いてもいい頃かなと思い、サブブログで全16回に分けて綴ってみました。
父の介護に奮闘していたことを覚えてくださっている方も多いと思うので、ここでも改めて、まとめて書いておこうと思います。
蒸発した両親の過去、子供が追う記憶
子どもの頃の父との関係は、正直、複雑でした。
いつかそのこともちゃんと書こうと思いながら、気づけばもう4年。時が経つのは本当に早いものですね。
私の両親はこんな人
私たち姉妹がまだ幼い頃、両親は突然いなくなりました。
その後は、祖父母に育ててもらいました。
蒸発の理由は、借金です。
今からもう50年近くも前の話になります。
父は腕のいい大工だったそうで、建てた家の評判も良かったと聞いています。
母は近所の会社の社員食堂でパートをしていました。
私が物心ついた頃までは、祖父母と三世代で暮らしていましたが、その後、祖父母は電車で30分ほどの場所へ引っ越しました。
今になって思えば、別居の原因は、父の素行の悪さと嫁姑の不仲だったのかもしれません。
子供の頃の私と父親です。

蒸発する前の父は、少しでも私が生意気な口をきくと、すぐに手が出る人でした。
姉は素直でしたが、私は意地っ張りで。
「自分は悪くない」と思っていたので、謝るくらいなら殴られた方がマシ、なんて思っていたんです。
…今もその性格、あまり変わってないかもしれません(笑)
当然ですが、そんな父は、母にも暴力を振るっていました。
小学生の頃から、母に「離婚した方がいい」とすすめていたのを覚えています。
両親が蒸発した後も、する前も…家庭は正直、しんどかったです。
1度目の両親の蒸発
腕の良い大工だった父の人生が狂い始めたきっかけは、知人の借金の保証人になったことでした。
その人が返済せず、父は1000万円近い借金を背負うことに。
「まじめに働くのが馬鹿らしい」と思ったのか、次第にギャンブルにのめり込み、借金取りから毎日のように電話がかかってくるような日々になりました。
そんな家庭でも、私が生まれてから数年は、ごく普通だったんです。
私は日本舞踊、姉は書道を習わせてもらっていたくらいですから。
ある日の早朝、両親は私たち姉妹の枕元に来て、「起きたらおばあちゃんに電話してね」と言い残し、現金の入った封筒を置いて出ていきました。
私はまだ眠かったのでぼんやりしていましたが、姉はしっかり起きていたようです。
夜明け前に家を出たのは、誰にも見られないようにするためだったんでしょう。
封筒の中には、3万円が入っていました。
当時まだ小学生だった私には、それがとても大きな金額に思えました。
やがて目が覚めて、両親がいなくなったことを理解した私は、祖母に電話をしました。
すぐに駆けつけてくれた祖母。
家の様子から「もしかして心中するつもりだったのでは」と思ったようです。
記憶はあいまいですが、その後、両親を探しに行ったり、交番に捜索願を出したりしたと思います。
結局、最初の蒸発はすぐに終わりました。
両親は見つかり、家に戻ってきたのです。
どうやら、本当に心中する勇気はなかったようでした。
今になって思うのは――
あそこまで追い詰められた状態を、誰かに察してほしかったのか。
あるいは、母が離婚するための伏線だったのか。
きっと、どちらかだったんだろうと思います。
その後、親族を交えて話し合いが行われ、家を売って借金を返すことが決まりました。
親から譲り受けた土地に、自分で建てた家。
それを手放す決断ができなかった父は、結局、逃げてしまったんですよね。
私なら、さっさと資産を処分してやり直すと思うんですが…
父には、長男としての面子や親戚の目があって、決断が遅れてしまったのかもしれません。
すべてが後手に回っていたんです。
当時住んでいた家はこんな感じの家でした。
- 和室:8畳・6畳×3・3畳
- キッチンに縁側
- 離れに土間・お風呂・ミニキッチン
- 敷地は約100坪
- 最寄り駅まで徒歩10分
40年以上前のことですが、売り出し価格は1000万円ちょっとだったと記憶しています。
広告が新聞に折り込まれた時、自分の家が載っているのを見て、とても恥ずかしかった。
すぐに同級生の間でも知られるようになりました。
貧乏を馬鹿にされないために
ある日、クラスのちょっとヤンチャな男の子に言われたんです。
「お前んち、売りに出てたぞ」
「貧乏なんだな、ぷっ(笑)」
カチンときた私は、こう返しました。
「うん、うちは貧乏だよ。でも、あんたはバカだね」
子どもながらに、「貧乏だと笑われる、見下される」と感じていました。
だから、力では勝てない私は、「勉強だけは負けたくない」と思って、ひたすら机に向かっていました。
1日3時間は当たり前。
塾に通う余裕なんてなかったので、古い参考書や問題集を何度も繰り返す毎日。
でも、小学生くらいならそれで十分なんですよね。
今思うと、我ながら健気でした💦
学校で自分の居場所をつくるために、必死だったんだと思います。
授業中も、「先生、きっとこういう質問してくるはず」と予想して、先に手を挙げたくてムズムズしてたんです。
そのせっかちさ、今も変わってません(笑)
その後、家が売れて両親は離婚。
私は父が嫌いだったので、ホッとしたのを覚えています。
「これでもう、父の暴力から解放される」
「貧乏でも、穏やかな暮らしができる」
そう思っていました。
でも、試練はまだ続くのでした…。
離婚後の母との暮らし
母と一緒に暮らすことになって、父と離れられたのが本当にうれしかったんです。
たとえ転校が伴う引っ越しでも、それがイヤだとは思いませんでした。
転校したのは中学2年という中途半端な時期だったけど、前の学校と同じバレー部に入ったらすぐ友達もできて。
勉強も、それまで通り一生懸命やっていたから、貧乏だったけどバカにされるようなことはなかったです(笑)。
でも、安心できたのはほんの一瞬だけでした。
離婚したはずの父が、何度もお金を借りに来るようになったんです。
お金があればまだよかったけれど、ないときには母に手を上げることもあって…。
正直、怖かったです💦
思いつめた母が「一緒に死のう」って口にした夜、私は姉と交代で寝ずに見張っていました。
もし寝ている間に何かあったら…って、本気で思ってたんです。
その頃は、万が一のときにすぐ通報できるように、近所の交番の電話番号を手のひらにサインペンで書いていました。
あまりの恐怖で気を失ったこともあります。
泣き叫ぶ姉の声で目を覚ましたとき、父が帰ったと聞いて、ほっとしてやっと眠れた。
そんな日が何度もあって、心はかなりボロボロだったと思います。
それでも、友達や先生には知られたくなかった。
「大丈夫だよ」ってふりをして、泣きたい気持ちを押し殺してた。
でも、心は勝手にあふれちゃうんですよね。
サーブの練習中、不意に涙がこぼれて止まらなくなったこともありました。
自分では泣くつもりなんてなかったのに。
もう、メンタルがギリギリだったんだと思います。
そんな私を見た顧問の先生が、練習後に声をかけてくれました。
気にしてくれてるんだな…って一瞬うれしかったけど、言われた言葉に逆にショックを受けました。
「今どき、離婚してる親なんて珍しくないんだから、気にするだけムダだろ」
えーーーーー⁉
違うの、そこじゃないの💦
私は、離婚したことなんて全然気にしてなかった。むしろ、離婚してくれてよかったと思ってるくらい。
でもね、問題はそのあと。
別れたはずの父が何度も押しかけてきて、金の無心と暴力。
そのたびに、母も、私たちも、殺されるんじゃないかって本気で怯えてた。
その恐怖が積もって、涙になったのに…。
「なんで泣いたのか?」「何に苦しんでるのか?」
もう少し、心に寄り添ってほしかったなって思います。
母親の蒸発
毎日がとにかく辛くて、早く大人になりたいってずっと思ってました。
父の暴力や金の要求に、母ももう限界だったんでしょう。
ある日、母が突然いなくなりました。
置き手紙もなしに、私たち姉妹を残して蒸発してしまったんです。
呆然として、とにかく祖父母の家に行こうってなりました。
最寄り駅までは歩いて30分くらい。
バスもあったけど、お金を節約するために国道沿いの歩道を歩いていたら、雨がポツポツ降ってきて。
雨具もなくて、2人で濡れながら歩いていたとき、偶然、叔父の車が通りかかりました。
私たちはずっとうつむいて歩いていたから気づかなかったけど、助手席の叔母が見つけてくれて車に乗せてくれたんです。
後から叔母が涙ながらに話してくれました。
「もう、可哀想で、可哀想で…」って。
その後、親族と父を交えて話し合いがありました。
そして、「やっぱり子どもは親のそばがいいだろう」と、最悪の結論に。
また、父と一緒に暮らすことになってしまったんです。
あのときの絶望感、今でも覚えてます。
父親との辛い同居の再開
母とやっと安心して暮らせると思っていたのに、またあの父と…。
本当に辛かった。
未成年だったから、自分で選べる立場じゃなかったし、大人たちの決定に従うしかなかった。
祖父母と一緒に住みたい気持ちもあったけど、父のせいで財産を失って生活も大変なのに、これ以上負担はかけられなくて。
相変わらず、父はだらしなかったです。
給料が入るとすぐパチンコへ行き、家計は常に火の車。
食べるものがない日も多くて…。
お隣さんがパンやお菓子を分けてくれることが何度もありました。
「パチンコで勝ったから、遠慮しないでね」って。
その優しさ、本当にうれしかったです。
でも、そんな様子を見た父が何か言ったんでしょうね。
ある日を境に、ピタッと何もくれなくなりました。
たぶん、父のプライドが邪魔をしたんだと思います。
最後に残った、ひとつのクリームパン。
姉が「明日、あんたがこれ食べて学校行きな」って譲ってくれて、私もうれしくて楽しみにしてたのに…。
朝起きたら、ないんです。
寝ている父の枕元に、空の袋だけが転がってました。
食べられてたんです、私のパン💦
悔しくてたまらなかった。
「大人になったら、思う存分クリームパン食べてやる!」って心に誓いました。
学校がある間は、給食があるからまだマシ。
でも、長期休みは、本当に地獄でした。
高校受験とバイト
そんな生活の中でも、私も高校受験の年になって。
「進学どうする?」「お金は?」
父は「金がないから高校なんて行かずに働け」と言いましたが、それでも私は高校へ行きたかった。
学費はアルバイトで何とかするとしても、制服代が必要。
それで、中学3年の時からバイトを始めました。
「中学生を雇ってくれるところなんてあるの?」と思いますよね。
たまたま近所の美容院で雑用のバイトを募集していて、「とにかく何でもやりますから!」って勢いでお願いに行きました。
お店の人も戸惑ってましたが、
「お小遣い程度しか出せないけど…それでもいいなら」と言ってくれて。
今思えば、労働基準法とかでいろいろ難しかったんでしょうね。
契約書も給料明細もなく、たぶん店長さんのポケットマネーから出してくれていたと思います。
1日働いて、2,000円。
それでも積み重ねれば制服代になる!
掃除や洗濯の他に、夕飯の買い物を頼まれたり、店長の子どもの宿題を見てあげたりもしていました。
「受験勉強は?」って思うかもしれませんが、お金もなくて遊びにも行けなかったし、バイト以外の時間はしっかり勉強してました。
志望校も先生と相談して決めて、成績的には問題なかったので、いよいよ高校に行ける!
初めての給料を手にしたときは、本当にうれしかったです。
でも――人生、そう甘くはなかったんです💦
バイト代まで搾取する親
ようやく、自分で稼いだお金で高校へ行ける…!
制服だって、自分の力で買える!
そう思って、私は胸を張ってバイトを続けていました。
でも、その希望もあっという間に崩れ去ったんです。
父が、私のバイト代に目をつけました。
今のような銀行振り込みでなく手渡しだったお給料。
お店から出たら目の前に父親が立っていました。
お金が取られる!恐怖で足がすくみました。
お給料日と分かって待ち伏せされたんです。
そして想像通り全額を奪われパチンコに全て使われました。
悔しくて大泣きをしました。
絶望感しかなかったんです。
でも、怒りをぶつける相手なんていない。
だって、父に逆らったら、どうなるか分かってたから。
試験は合格しても制服が買えなければ入学できない。
このままではダメだと思い、初めて担任の先生に相談しました。
すると先生は直ぐに対応してくれて社会福祉協議会から10万円を借りる手はずを整えてくれました。
このお金は働くようになったら返金しなければならなかったのですが嬉しかったな。
授業料に関しては簡単な試験を受けて奨学金より多くのお金を借りられる特別奨学金を受けられることが決まっていたのでこれで高校に行ける!!
姉妹で手を取り合って逃げた
高校に無事入学したものの、父との生活は何も変わりませんでした。
毎日のように姉と、「もう家を出よう」と話し合っていました。
奨学金があるし、交通費や食事くらいならバイトでなんとかなる。
祖父母の家から通おう――そう決めたんです。
でも、いざ行動に移すとなるとやっぱり怖かった。
バレたら、何をされるかわからない…。
ある日、父が癇癪を起こした時に「もう無理だ」と思い、そっと家を抜け出しました。
荷物を抱えて駅まで走り、ホームで電車を待っていると…
父の車が駅前に現れました。
姉と私はとっさにトイレに隠れました。
ホームをウロウロと確認する父。
「早く…早く電車来て!」
祈るような気持ちで、時間が止まったように感じました。
わずか2~3分だったはずなのに、ものすごく長く感じたあの時間。
電車がホームに滑り込んでドアが開いた瞬間、トイレから飛び出して車内へ。
父は電車には乗り込まなかった。
姉と私は、無言のまま電車に揺られ、祖父母の家を目指しました。
平穏な暮らし
祖父母は、私たちをあたたかく迎えてくれました。
近所に住む親戚たちと集まって、これからのことを話し合う場が持たれました。
父から受けてきた仕打ちを説明し、「祖父母の家から学校に通いたい」とお願いしました。
でも、年金暮らしの祖父母に姉妹2人を育てるのは無理だろう、と言う親戚も。
施設に入れるしかないんじゃないか、そんな声も聞こえました。
「それでもいい。父の元に戻るよりは施設のほうがまし」
そんな覚悟を決めかけたその時、祖母が口を開きました。
「施設には行かせない。ここから学校へ通わせる」
その言葉がどれほど嬉しかったか。
父のせいで財産を失い、ギリギリの生活。
それでも祖母の決意は揺るがず、私たち姉妹はできる限り迷惑をかけないよう努力しました。
深夜の勉強は光熱費を考えて控え、朝日が差し込む台所で勉強。
放課後は蕎麦屋でバイト。時給333円、当時としてもかなりの低賃金でした。
土日も朝から夕方まで働き、賄いもいただきました。
遅くなった帰り道は、お店の人が車で送ってくれることもあり、本当にありがたかった。
祖父母との暮らしは決して楽ではなかったけれど、辛い思いをすることなく、安心して学校生活を送れた。それが何よりもありがたかった。
社会人になって祖父母の家を出た後は、月に10万円ずつ仕送りをしました。
贅沢はせず、最小限の生活をしてでも恩返しがしたかったんです。
無事に社会人としてスタートが切れましたが、それもこれも姉がいてくれたから乗り越えられたと思っています。
2人で力を合わせて頑張りました。
姉の事
私には2歳上の姉がいます。
あの辛い日々の中、どれほど姉が支えになってくれたことか。
姉は素直で、親に逆らうこともない子でした。
それに比べて私は…強情で、自分が悪いと思わなければ絶対に謝らない頑固者(笑)
幼い頃の写真を見ると、姉は穏やかに笑っているのに、私は目つきが鋭くてまるで野生児。

「もうこんな暮らしから逃げ出したい!」
中学生のとき、私は姉に言ったんです。
「2人で東京に出て暮らそうよ。年齢ごまかせば働けるかもしれない」
その頃、私は身長168cmで大人の体型。でも、姉は静かに言いました。
「〇〇、どう見ても中学生だよ」
「東京に行っても雇ってくれるところなんてないよ」
ダメか… まだまだ我慢しなきゃいけないのか…。
落胆したあの時の気持ち、今でもよく覚えています。
今思えば、あのとき上京しなくて本当に良かった。
もし行っていたら…家出少女2人なんて、きっと危険な目に遭っていたでしょう。
もしかしたら何処かに売り飛ばされていたかもしれません。
そうしたら今のように平穏に暮らしている事もなかったでしょう。
そんな姉とは今でも仲が良くて、一緒に旅行に行ったり、コンサートに行ったり。
このブログも読んでくれています。
先日、姉からこんなLINEが届きました。。

今でも時々あの時の事が会話に出て来ます。
あの辛い日々があったから、離婚した時も仕事で辛い時も、乗り越えられた気がする。
そう思うと、あれも私に必要な経験だったのかもしれません。
祖父母の元から姉も私もお嫁に行きました。
もちろん父親は行方知れずで、結婚式には参列していません。
でも――まさか、あの父と再び会うことになるとは思ってもみませんでした。
祖母の死
私たち姉妹が祖父母の元で育った後、父親は行方知れずになり、10年以上が経ちました。
その間に祖父が老衰で亡くなり、その後祖母も肝臓がんで亡くなりました。
どちらも私たち姉妹で看取りました。
祖母は、最後まで長男である父親のことを心配していました。
やっぱりどんな子供でも可愛いんですよね。
祖母の葬儀の席に、突然現れた父親。
きっとどこかで様子を伺っていたのかもしれません。
または、知人から知らされたのかもしれません。
顔を見るなり怒りが込み上げてきてきました。
泣きながら父親を詰りました。
「最後まで父ちゃんの事を心配して会いたがっていたんだよ!」
「死んでから現れるなんてあんまりだ!」
私達姉妹は、父親の言いなりになるしかなかったあの時とは違います。
もう二度と会いたくないと思った父親。
でも父親の姉弟や姉は違ったんですよね。
その時に父親と姉は連絡先を交換し、その後の新盆や法要などのタイミングでは父親と顔を合わせる事になりました。
徐々に歳を取っていく父親に優し言葉をかける事も出来ず、とても愛想の悪い娘だったと思います。
しかし、私はどうしても父親を許すことができませんでした。
父親の贖罪
数年後、私は離婚しシングルマザーになりました。
離婚した後に父親に会った時に、私が離婚した事を姉が伝えました。
すると「ちょっと待っていろ」そう言って席を立った父親。
戻った父親は私にぶっきらぼうに封筒を渡しました。
中を見てみると30万円程入っていました。
きっとかき集めてきたんでしょうね。
お金はないけれど私への贖罪だったのか?
それとも連れている孫が不憫に思ったのか?
言葉が出ませんでした。
「お金は要らないよ」
そう言うと、姉は「もらっておきなよ、これからお金もかかるし・・」
色々な思いが巡りましたがありがたくもらう事にしました。
そのお金は離婚後の生活でかなり助かった事は言うまでもありません。
それから更に月日が経ち父親も後期高齢者の仲間入りと言うところで1本の電話が姉の元にありました。
認知症になった父親
しばらくは疎遠になっていましたが、姉からの連絡で父親に会いに行くことになりました。
「何だか様子が変なのよ。同じ事を何度も言うし・・・」
父親は、明らかに認知症の症状が出ていました。
そして、久しぶりに会う父親は一回り小さくなっていました。
どこも悪くないと言う父親をなだめながら、物忘れ外来があるクリニックへ連れていきました。

初診だったので2時間程待たされてしました。
どんなに長い時間でも、黙って大人しく座っている父親を見て「もうこんなに歳を取ったのか」と改めて思いました。

若い時は、体も大きくて、短気で直ぐに怒るイメージがありました。
仕事やプライベートで面白くない事があると、イライラして家族に当たっていました。
あの強かった父の面影はありません。
検査では、一般的な認知症検査をしました。
看護師:〇〇さん、今日は何月ですか?
父親:9月かな?
看護師:春夏秋冬、今の季節は?
父親:秋かな?
看護師:秋ですか?
父親:あ、間違えました。夏です。
あ~やっぱりな、相当認知が進んでいるなと思いました。
看護師:〇〇さん、今日したことを文章でここに書いてください。
紙とペンを渡された父は、少しためらいながら
父親:漢字じゃなきゃ駄目ですか?
看護師:ひらながで良いですよ。
書いたのが、こちらの文章です。
「あさ草とりをした」
何だか一生懸命書いている父親を見て思いました。
もう許す時なんだなと。
初めて夫が父親にあった時に、びっくりするくらい私は父親に似ていたそうです。
辛い記憶しかない父親との関係。
それでも父親であることに間違いない。
寝たきりになるか認知症になるまでは優しい言葉は掛けたくない。
いや、掛けられないと思っていました。
私も歳をとったのだと思いました。
それからは、アルツハイマー型認知症だった父親が亡くなるまで姉と交代で介護をすることになりました。
近所の人に会ったら、
「娘が来てくれたんだよ」と嬉しそうに私を紹介する父親。
まんざらでもなかった自分が不思議です。
その後、胆管がんが発見され1年後には永眠しました。

この1年があったからこそ私達姉妹の心の整理が出来たと思っています。
1年間と言う短い間ですが、父親と関り看取る事が出来たのは本当に良かったと思っています。
長くお付き合いいただきありがとうございました。
この週末は父の眠るお寺にお参りに行って来ます。

