おはようございます、Rinです。
今日は、子供の頃に蒸発した母親のことについて、少しお話しさせてください。
子どもの頃の私にとって、家族という存在は「安心」よりも「緊張」の象徴でした。
両親は借金をきっかけに家庭が崩れ、蒸発と再同居を繰り返し、最後は離婚。
父は短気で暴力的、金遣いも荒く、私たち姉妹は祖父母に育てられました。
貧乏を笑われまいと必死に勉強し、高校進学のためにバイトをし、奨学金を借り、姉と手を取り合って父の元から逃げました。
あの頃の私は、とにかく「生き延びること」に必死だったのだと思います。
そんな父も、晩年はアルツハイマー型認知症になり、最後は胆管がんで亡くなりました。
強くて怖かった父が、小さくなり、同じことを何度も繰り返し、季節も答えられなくなっていく姿を見たとき、不思議と怒りは薄れていきました。
実は、私が離婚したことを知ったときの父の行動も、心に残っています。
事情を聞くと、父は無言で席を立ち、家中のお金をかき集めてきました。
そしてぶっきらぼうに、30万円の入った封筒を私に差し出したのです。
それが贖罪だったのか、孫(私の娘)を思ってのことだったのかは分かりません。
でも、そのお金が離婚後の生活で大きな支えになったのは事実です。
言葉ではなく、お金でしか示せなかった父なりの不器用な愛情だったのかもしれません。
その後、姉と交代で介護をし、最期を看取った一年は、私たちにとって「心の整理」の時間でした。
あの一年があったからこそ、父との関係に一つの区切りをつけることができたのだと思います。
その父が生きていた頃、こんなことを言いました。
「母ちゃんの居場所を知っているから、一度会ってやってほしい。かわいそうだから」
自分も一杯一杯だったはずの父が、別れた女房を気にかける。
歳をとったものだな、とその時は思いました。
父に連れられて行ったのは、小さな貸家。
手前で父は「父ちゃんはここで待っているよ」と言い、直接会うことを避けました。
玄関を開けて出てきた母は、年老いてはいたけれど、やっぱり母でした。

でも口から出たのは、「あの時、〇〇たちを置いて出たのは理由があった。母ちゃんも大変だったんだ」という言い訳ばかり。
その瞬間、少しだけ開きかけた私の心のシャッターは、音を立てて閉まりました。
姉は連絡先を交換しましたが、私は当時の辛さをぶつけ、早々に帰りました。
その後、母から姉に連絡が入ります。
「がんの疑いがある。精密検査に一緒に来てほしい」と。
姉自身もがんを経験し、しんどい思いを乗り越えたばかりでした。
困ったときだけ頼る身勝手さに、温厚な姉もさすがに怒りをぶつけました。
すると母は「〇〇もがんだったのか。わかったよ、もう連絡しない」と言い、それきり数年が過ぎました。
そして最近、また姉の元に電話があったそうです。
「母ちゃん、歳をとって自分のことができなくなってきたから、施設に入る予定だ」
しゃがれた、力のない声だったといいます。
「すっかりおばあちゃんの声だった…ちょっとかわいそうな気がした」と姉は言いました。
私は正直、会う気はほとんどありませんでした。
かなり冷たい娘だと思います。
でも、父の介護を通して知ったのです。
逃げたままでは、心の整理はつかないこともあると。
「姉ちゃんが会いたいと思うなら、一緒に行くよ」
そう伝えました。
母のためというより、姉の気持ちに寄り添いたかったから。
そして、これもまた一つのけじめなのかもしれない、と。
父のときのように、私たちの心に区切りをつける時間が、また訪れるのかもしれません。
これからどうなるかはわかりません。
でも、もし心に何か変化があったら、またここに書こうと思います。
それでは、また。
親との複雑な関係はこちらにまとめています。









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